川口鋳物と永瀬家
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川口鋳物
埼玉県川口市は、古くから鋳物工業が発達し、「鋳物の街」・「キューポラの ある街」として全国的に知られています。川口鋳物の起源は諸説あり明らかではありませんが、室町時代末期に既に行われていたとされ、江戸時代に鋳物師が集住して一大産地を形成しました。江戸・東京といった大消費地に隣接し、荒川・芝川から産出する良質な砂と粘土が鋳型の製造に有利であること、運搬・労働力の面でも恵まれていたことで、川口に鋳物業が発展・定着したと言われています。

当初は、鍋・釜・鉄瓶といった生活用品が主流でしたが、幕末には大砲の鋳造が行われ,明治時代に入ると技術革新により大型鋳物の鋳造が可能となり、洋風建築の鉄門や鉄柵などが鋳造されました。川口鋳物は、その時代の需要に応じて様々なものを鋳造しました。
大砲の製作
幕末期、日本は欧米列強の強力な艦載砲を備えた軍艦の来襲に危機感を持っていました。幕府は海防の重要性を認識し、大砲製造命令を出し鉄製大砲の整備を急ぎました。大砲の大型化を図るため、全国各地で反射炉が作られ本格的に大砲が製造されました。初代永瀬庄吉は伊豆韮山の反射炉の火床を鋳造し、韮山に納入しました。川口の鋳物師は、幕府や諸藩から大砲や弾丸の製造を受注し、幕末の武器需要を支えました。

※反射炉とは
鉄や青銅などの金属物を高温で熱して溶融・精錬するための装置。
炉の天井に熱を集中し、その輻射熱を利用することから反射炉と呼ばれた。
貨幣の製造
安政6年(1859年)、財政が緊迫していた江戸幕府は現在の東京都足立区に「小菅銭座」という貨幣鋳造工場を設置しました。初代永瀬庄吉を棟梁として川口鋳物師が招聘され、貨幣の鋳造の指導にあたりました。

吉原の大門
2代目永瀬庄吉は、明治14年(1881年)、新吉原遊郭の大門として鋳鉄製の門柱を鋳造しました。現存する学習院の正門と非常に似た様式の門で、高さ3~4メートルもある立派な四角い鋳鉄鋳物製門柱です。両門柱の上には当時最先端だった「ガス燈」が据えられていました。

蒸気機関による技術革新
永瀬庄吉(3代目)は、16才の時「工部省赤羽工作分局」(東京市芝区赤羽橋の有馬製作所)に飛び込み、イギリス人技術者ギンク氏から西洋式生型法や蒸気機関による送風機の技術を習得し約3年後に自社内でその運転を開始し実用化に成功しました。それまでの人力たたら踏みから、蒸気機関動力による新送風技術を導入することで川口鋳物の技術革新に貢献しました。
水道管事業
明治20年(1887年)、東京市からの依頼により、国内で初めて水道用大口径異形管を鋳造しました。当時、水道用大口異形管は外国の輸入製品を使用していましたが、納期遅延や多量の不良品の発生や破損が多く、国内での補充製造がもとめられました。そこで技術力に定評があった永瀬庄吉のもとに製作依頼が殺到しました。永瀬庄吉の経営する「永瀬鉄工所」は、水道用鋳鉄管の製造を開始し、後に関西は大阪の久保田製作所、関東は川口の永瀬と言われるほどに成長しました。

発電事業
明治33年(1900年)、自作の蒸気機関を応用して、自家内のレンガ蔵に火力発電所を設置し、埼玉県で初めての発電事業を開始しました。電灯のPRとして当時の川口町に街路灯を設置し約400灯あまりの電灯を灯しました。

薬研屋
永瀬家の鋳物業開業は亨和元年(1801年)と言われています。川口の鋳物師は「永瀬姓」を名乗るものが多かったため、通称(屋号のようなもの)で呼ぶのが慣わしでした。漢方医や家庭用の手動製粉機であった薬研も作っていたため、「薬研屋」の通称で呼ばれていました。

※薬研とは
薬研(やげん)は、漢方薬などをつくるとき薬種を細かい粉にひくのに用いる器具のことです。この器具は中央に窪みのある船形の形をしています。その窪んだ箇所に薬種を入れ、中央に握り手の部分となる軸を通した円盤状の車輪を前後に押したり引いたりして、細かい粉にしていきます。
鋳物製品
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川口善光寺の大焚鐘
明治以前)第1代庄吉またはその祖先の作品(現存せず)
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絵柄を鋳出した鉄瓶類
明治5-10年(1872-1877)頃(現存せず)
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学習院女子大学の正門
明治10年(1877)10月(現存)
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川口神社へ奉納した鉄華表(鳥居)
明治11年(1878)1月(現存せず)写真のみ現存
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太田市・新田寺大光院のお手洗い鉢
明治13年(1840)7月(現存)
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東京・吉原大門
明治14年(1841)4月(現存せず)写真のみ現存
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鳩ヶ谷町 氷川神社の水盤(鉄製)
明治16年(1983)3月(現存)
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成田新勝寺・釈迦堂の水盤
(合金鋳物)明治18年(1885)(現存せず)戦時供出により失われる
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待乳山聖天石柱銅燈
明治19年(1886)3月 浅草七福神の1つ
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成田公園「照輪和尚の碑」
明治21年(1888)合金鋳物製品(現存)
永瀬正吉と小川治郎吉との合作 鋳鉄製水盤1基
明治21年(1888)4月鋳造の銘あり -
常福寺の鋳鉄製水盤(天水桶)1対
明治21年(1888)5月鋳造 現存
(現足立区東伊興町4丁目6-1) -
旧二重橋(鉄橋)の欄干及び
皇居外壁の鉄柵明治21年(1888)
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大勲位久能王の策額
明治22年(1889)(久能山東照宮? 現存せず)
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川崎大師・征清陣軍人招魂碑
明治28年(1895)(本体は青銅鋳物、台座は鋳鉄鋳物製)(現存)
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日比谷公園の鉄柵
明治36年(1903)(現存せず)戦時供出により失われる
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旧赤坂離宮の表門
明治42年(1909)同時に納入された、内部の門扉や、水道用の鉄管、バルブなど(現存)
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諸官庁銀行会社などの鉄柵門扉など
明治30-40年代 印刷局の鉄柵をはじめ、当時東京市内の鉄柵の7割は、永瀬鉄工所の製作
産業用鋳物と機械類
- ・蒸気機関、石炭ボイラー、動力風車 (溶解炉への送風機械として)
- ・旋盤、平削盤、正面旋盤などの工作機械類
- ・水道用の小口径直管 (遠心鋳造法)
- ・水道用の大口径異形管 、 制水弁(バルブ)、 消火栓
- ・ガス、鉱山用の鋳物管
- ・ガス器具用の大型鋳物
- ・トロッコ用の大型チルド鋳物車輪
- ・チルド・ロール、 チルド・ホィール類などの車輪
- ・製鉄用のインゴット・ケース、定盤